鰺ヶ沢町の歴史
鰺ヶ沢町の歴史を遡ると、安東水軍が津軽を席巻していた時代に、その源流を見ることができると言われています。安東氏は、鎌倉時代、十三湊を根城に日本海交易に活躍した豪族。蝦夷地から若狭小浜あたりまでを自在に駆け巡ったという安東氏の津軽船は、中央にも聞こえた存在でした。
しかし、日本海沿岸の港には、航海の安全を願って、出航の折の日和を見たという高台が、日和山とか日和見山などと名付けられて各地に点在していますが、鰺ヶ沢の日和山もその例に漏れません。七世紀頃、蝦夷征伐に名を馳せた水軍の将、阿部比羅夫が渡嶋へ渡るために日和を見たところという伝説が残されていますから、さらに古い時代から、天然の良港として、船の出入りがあったことが想像されます。
さて、十三湊は、室町時代に記された「廻船式目」に全国の主要港”三津七湊”のひとつと数えられる北奥羽随一の繁栄ぶりを見せていましたが、中世末期には衰退。これに代わって登場するのが鰺ヶ沢湊です。藩都・弘前に近く、陸上には、西浜街道が走っているという便利さから、津軽統一を果たした大浦為信は、よくこの港から旅に出たと言われています。
近世に入って、津軽藩は日本海運の拠点を鰺ヶ沢に置き、弘前・鰺ヶ沢間を岩木舟運と沿岸海運で繋ぐ「十三小廻り」と呼ばれるルートをつくりました。この水路を使って廻米を鰺ヶ沢に集め、ここから西廻りの航路の弁才船に乗せて上方へ輸送する体制を作り上げたのです。江戸時代の日本は、幕府の鎖国政策のため、国内海運がめざましい発展を遂げた時代でした。一大消費地、江戸への経済ルートとして、江戸・大坂間の海運が始まり、並行して、全国各地から江戸、大坂への定期航路が開かれるようになります。
そして、河村瑞賢によって、東廻航路や西廻航路が刷新されるなど、各地の沿岸航路が整備され、寛文年間(1661年から1672年)には、全国的な沿岸航路網が完成しています。
鰺ヶ沢は、津軽藩の海の玄関として、また、西廻航路の寄港地として賑わいました。北陸や瀬戸内海方面、遠くは大阪からの弁才船が日用品などの陸揚げや、廻米の積み込みのために往来し、また、京・大坂の文化が港を介してもたらされました。
延宝3(1675年)年の「鰺ヶ沢港船着岸控」には、「商船七〇艘、御役船六〇艘、合わせて一三〇艘」と、往来の盛んだった様子が記されています。
当時の船運の隆盛の様子を伝えるのが船絵馬です。船絵馬は、船主が航海の安全を祈って神社に奉納したもので、白八幡宮に残るものは、大きく帆をはらませて、誇らしげに日本海を航行する三艘の北前船が描かれています。当時の海運事情を知る資料としても貴重なものです。
また、白八幡宮境内に立つ玉垣は、船の安定のために積んだ御影石で造られています。鰺ヶ沢に入港した諸国の船や町の船問屋が奉納したもので、刻まれた文字を見ると、文化13(1816年)年の日付が見えます。
しかし、青森港の発展、鉄道の普及などによって次第に港の勢いが衰え、明治も後期になると、交易港としての役目は終わりを告げます。
大正期には、漁業が町の産業の中心に成長していきます。
鰺ヶ沢は、江戸時代から漁業が盛んで、大漁や城の行事の際には魚を献上する習わしがあり、肴飛脚という制度がありました。明治期には、ニシンやイワシの大漁が続き、以来、県内随一の漁港となっていきます。
そして、数々の時代を隔てた今、鰺ヶ沢は、環日本海の拠点都市の再生に向け、その期待が集まっています。平成八年度一部供用開始となった津軽港(旧七里長浜港)とこれに続くウォーターフロント地区の整備が着々と進行しています。
海と共に生きてきた鰺ヶ沢が、再び、限りない可能性へ向けて出航しようとしているのです。