大浦光信と種里城
延徳3年(1491)、久慈郡(岩手県久慈市)の領主・南部光信(大浦光信)が、種里城に入りました。三戸南部氏が安藤氏(安東氏)との抗争地帯であった津軽西海岸の掌握をはかるため、一族の光信を種里に派遣したとされています。
光信は、文亀2年(1502)に、津軽平野内陸部の岩木山麓に大浦城を築き、子の盛信の居城としました。光信自身は大浦氏の初代として種里城にとどまり、大永6年(1526)に死去。種里城内に埋葬されました(光信公御廟所)。その後は大浦城が代々大浦氏の居城となり、種里城は支城として江戸時代初めまで使われました。
津軽藩発祥の地
大浦氏を継いだ5代目の為信は、南部氏の支配から独立し、天正18年(1590)に豊臣秀吉から津軽郡支配を認められて津軽氏を名乗ります。津軽為信は津軽藩(弘前藩)の初代藩主となりました。津軽氏の居城は、文禄3年(1594)に大浦城から堀越城へ、さらに慶長16年(1611)には弘前城へと移転しました。
大浦光信は、津軽氏の系図や系譜の中で始祖として伝えられ、その居城であった種里城跡は「津軽藩発祥の地」とされるようになりました。
種里城跡は、平成14年(2002)に弘前城跡・堀越城跡とともに「津軽氏城跡」として国史跡に指定されました。