主郭の北側地区は「セツバヤシキ」とも呼ばれ、大浦光信の家臣の侍屋敷があったと伝えられています。種里城跡絵図には「旧御家中屋敷跡」と記されています。
侍屋敷地区は段々の平坦地(曲輪)に分かれています。発掘調査では、家臣の住居とみられる小型の掘立柱建物跡などが確認されました。出土遺物は、光信が種里城にいた15世紀後半~16世紀前半の陶磁器よりも、光信が死去した後の16世紀末~17世紀初めの陶磁器が多く見つかっています。
種里城は大永6年(1526)に光信が死去した後も、江戸時代初めの弘前城築城の頃まで使われていたようです。