堀切沢の天明飢饉供養塔
天明3年から4年(1783年から1784年)の大飢饉は悲惨を極めた。冷害による大凶作で、津軽藩では、総人口の三分の一にあたる8万人以上の餓死者を出したとされる。鰺ヶ沢でも多くの死者があり、後年、その供養塔が建てられた。この供養塔は、文化6年(1809年)、鰺ヶ沢の船問屋・吉田源右衛門(三国屋)により建立されたものである。
天明3年から4年(1783年から1784年)の大飢饉は悲惨を極めた。冷害による大凶作で、津軽藩では、総人口の三分の一にあたる8万人以上の餓死者を出したとされる。鰺ヶ沢でも多くの死者があり、後年、その供養塔が建てられた。この供養塔は、文化6年(1809年)、鰺ヶ沢の船問屋・吉田源右衛門(三国屋)により建立されたものである。