生駒き(「き」はめへんに、隹)員墓
文政11年(1828年)に亡くなった生駒き(「き」はめへんに、隹)員の辞世の句「穂すすきの中にともあり秋の蝶」を刻んだ墓石。生駒家は北陸の三国湊(現在の福井県)から鰺ヶ沢湊に移った一族で三国屋を名乗った。生駒家の一族の多くは船問屋を営み、松本禽翁門下の俳人として生駒猿澄、生駒鴦輝らがいた。き(「き」はめへんに、隹)員も同様の俳人であったとみられる。
文政11年(1828年)に亡くなった生駒き(「き」はめへんに、隹)員の辞世の句「穂すすきの中にともあり秋の蝶」を刻んだ墓石。生駒家は北陸の三国湊(現在の福井県)から鰺ヶ沢湊に移った一族で三国屋を名乗った。生駒家の一族の多くは船問屋を営み、松本禽翁門下の俳人として生駒猿澄、生駒鴦輝らがいた。き(「き」はめへんに、隹)員も同様の俳人であったとみられる。