無量庵跡の板碑
板碑とは、石材を用いた卒塔婆のことで、死者の供養のために建てられた。年代は南北朝時代(1336年から1392年)のものと推定されている。碑面には阿しゅく如来(「しゅく」はもんがまえに、ひとやね、人人)を表す梵字ウンが刻まれている。鯵ヶ沢に南北朝時代から集落があったことを物語るとともに、当時、この地方に勢力を誇った豪族・安藤氏の関わりがうかがえる資料である。またこの場所は、江戸時代には墓地として利用され、高沢寺の墓守堂である無量庵(通称山寺コ)が建てられた。
板碑とは、石材を用いた卒塔婆のことで、死者の供養のために建てられた。年代は南北朝時代(1336年から1392年)のものと推定されている。碑面には阿しゅく如来(「しゅく」はもんがまえに、ひとやね、人人)を表す梵字ウンが刻まれている。鯵ヶ沢に南北朝時代から集落があったことを物語るとともに、当時、この地方に勢力を誇った豪族・安藤氏の関わりがうかがえる資料である。またこの場所は、江戸時代には墓地として利用され、高沢寺の墓守堂である無量庵(通称山寺コ)が建てられた。