永禄の墓石
永禄3年(1560年)の記年銘がある「白雲院殿法山了受大居士」の墓石。この一帯は別所と呼ばれ、戦国時代に、津島筑後の館があったとされている。津島氏は津軽藩始祖・光信公の種里入部に従い、その後、赤石川流域の館前や中村川流域の別所の開拓にあたった。墓石は、子孫にあたる津島綱雄が明治17年(1884年)に修復して建て直したと刻まれている。
永禄3年(1560年)の記年銘がある「白雲院殿法山了受大居士」の墓石。この一帯は別所と呼ばれ、戦国時代に、津島筑後の館があったとされている。津島氏は津軽藩始祖・光信公の種里入部に従い、その後、赤石川流域の館前や中村川流域の別所の開拓にあたった。墓石は、子孫にあたる津島綱雄が明治17年(1884年)に修復して建て直したと刻まれている。